
2/3。リトルモア地下で『DECOTORA 田附勝写真展』。小さなスペースにデコトラとそのドライバーたちの写真がぎっしりと並べられていた。それらは単純な生々しさをフレームの外に捨て置き、造形と色彩の完璧なる構成として新たなダイナミズムを獲得し、視覚を鷲掴みにする。田附(たつき)氏と被写体との距離感が絶妙だ。写真集、買わなきゃ。作品点数をもっと絞り込んでサイズの大きなプリントを主体にした方が、展示としてはより成功したかもしれない。
2/7。みつばちトート8studioで『naho ogawa / my life as a (petit) jetsetter #3』。バッグ屋さんの店先に、ナホさんの手描きイラストを切り抜いたボードが天井から無数にぶら下がった様は実に楽しく、キュートで、壮観。イラストの題材はバンコク、台北、ニューヨークの旅のワンシーン。首が疲れるまで眺める頃には、なんだかどこか遠くへ行きたい気分になっていた。
六本木に移動してギャラリー・ル・ベインで『深沢直人「木の椅子とテーブル展」』。新作椅子は一見シンプル極まりないフォルムが事も無げに身体にフィットし、違和感が無い。違和感が無いどころか、あまりの手触りの良さにうっとりするくらい。新作テーブルとの相性も完璧。これはぜひセットで欲しい、と思ったものの、そんなお金は無いし、だいいち置き場所が無い。マルニ木工の定番家具「地中海シリーズ」と「ベルサイユシリーズ」をリファインした椅子のシリーズは、深沢氏の志向する造形を間接的ながらかえって明快に示すものとして興味深い。本来のキャラクターをかろうじて留めるところまでディテールを取り除かれた猫足の椅子は、まるでその装飾性のみで存在するかのような軽やかさを感じさせる。
2/10。戸栗美術館で『鍋島 - 至宝の磁器・創出された美 - 』。17世紀半ばから18世紀半ばにかけて隆盛した鍋島の名品を一気に、かつ大量に見ることができた。何よりグラフィックデザインとしての格調の高さと洗練性に思わずため息が漏れる。精緻な絵付の技術は全て手描きであることがにわかには信じ難いほどだ。見応えがあり過ぎてぐったり。でもくたびれた分以上の収穫があった。
その後、神楽坂へ移動してラ・ロンダジルで『ハウスの革モノと金モノ』。ハウスと言うブランドで先ず頭に浮かぶのは当然靴。その次に多分バッグ。しかしここで私たちの目に留まったのは革と真鍮のパーツを組み合わせたちいさなオブジェの数々だった。折り紙を思わせる素朴さと、素材の持つ確かな存在感。手のひらに乗るくらいのサイズに増満さんの造形センスがしっかりと込められている。犬のオブジェを一匹飼うことに。
2/14。ギャラリー現で『倉重光則展』。倉重氏は1960年代末頃から活動するライト・アートの第一人者。蛍光灯やネオンを用いたミニマルなインスタレーションで知られる。ここで見ることができたのは、ちいさなギャラリーの長方形の壁3面を縁取るようにして設置された赤、青、黄のネオン作品と、2点のドローイング。ネオンの縁取りはそれぞれ一部が欠落しており、その不在が見る者の意識を作品をとりまく空間そのものへと誘導する。カッコいい。
2/22。ギャラリー・エフで『トーマス・ボーレ「ちび陶」』。詳細はこちらの記事で。
2/28。SCAI THE BATHHOUSEで『横尾忠則の壺』。アーティストに転身してからの横尾氏の作品は全くのノーチェックで、申し訳ないことに見もしないうちに勝手に醒めていた、と言うのが正直なところ。初めて実作の前に佇んで、その巨大な画面から放たれる形容不可能な禍々しい魅力に圧倒された。絵画とコラージュをシームレスに混在させる手法は極めて巧みで、洗練されたものだ。物語を予感させる象徴的でミステリアスなモチーフの狭間に、群衆が細かく描かれてるな、と思って近づくと、その顔は全て白黒写真の切り抜き。背筋に悪寒が走った。
1/14。サントリー美術館で『和モード 日本女性、華やぎの装い』、江戸東京博物館で『北斎 - ヨーロッパを魅了した江戸の絵師 - 』を見た。
期待をはるかに上回る見応えがあったのが『和モード 日本女性、華やぎの装い』。会場は6つの章に分かれて構成されていた。
1章と2章は平安から江戸時代にかけての和装の変遷を絵画や実際の衣装などで紹介するもの。和装の成立した平安時代と言えば十二単(じゅうにひとえ)だが、要するにこの頃は女性も男性も袴(はかま)履きの上に重ね着だった。平安末期に小袖(こそで)が登場し、室町時代に入るとそれが表着(うわぎ)となることでいわゆるキモノの原型が出来上がる。江戸時代には連続パターン一辺倒だったキモノの柄がぐんとグラフィカルな表現となり、いよいよファッション性が高まった。
興味深いことに、絵画を見る限り江戸前期までは誰一人として正座をせず、女性も男性もあぐらをかいたり片膝を立てたりと実に自由でリラックスした姿勢をとっている。キモノのかたちもまたゆったりしたもので、お端折の習慣は無く、帯はかなり細い。一体どのような経緯でキモノが現在のように窮屈なスタイルとなり、和室では正座が決まり事のようになってしまったのか。残念ながら展覧会ではそこまでのことは分からなかった。
3章は化粧や喫煙具、4章は髪型と髪飾りの変遷の紹介。特に髪飾りの展示は膨大で、その細工の精緻さといい実に圧巻だった。名も無き職人と江戸の大通たちのこうした小物のデザインに対する熱意には鬼気迫るものがあり、心底恐れ入る。5章は明治以降の女性のファッションの広告ポスターによる紹介され、6章はクリスマスと正月に因んだコレクション展示となっていた。
江戸東京博物館の特別展のボリュームは毎度大変なものだ。『北斎 - ヨーロッパを魅了した江戸の絵師 - 』もまたしかり。とりあえずオランダ商館からの発注により北斎とその工房が描いた肉筆画(そのほとんどがオランダ国立民族学博物館とフランス国立図書館からの一時的な里帰り)を重点的に見よう、と気構えたものの、やはり途中で目眩を覚えるような展覧会だった。
肉筆画の持つ迫力は実物ならではの醍醐味。緻密に描かれた各モチーフの輪郭と、ほとんどエアブラシを使ったようにしか見えない彩色の見事なグラデーション。生命感に溢れ、奥行きのある作品群に思わず息を呑んだ。
中盤の浮世絵のエリアは後ろ髪を引かれつつもどうにか流して見終え、国内所蔵の肉筆画のエリアに差し掛かってまた足が止まった。終盤の絵本・絵手本のエリアまでをじっくりと見て、なんとか閉館間際に終了。時には生々しく細密に、時には戯画化して軽快に、と自在にその表現を変えながら、対象物の持つダイナミズムとその本質を一枚の画にしてしまう北斎の洞察力と描写力はあまりに凄まじい。
展覧会の最後に、北斎が誰かに宛てた手紙が一枚展示されていた。そこには83才の北斎の自画像が添えられている。ユーモラスながら迷いの無い筆遣いは、全ての作品を見終えてなお一際印象に残るものだった。これまたオランダ国立民族学博物館の所蔵品なのがやけに情けない。お爺ちゃん、大事にしてもらってね。
1/2。東京国立博物館で長谷川等伯『松林図屏風』のついでに見たものをいくつか。

もとは京都の浄瑠璃寺に所蔵されていたと言われる『十二神将立像』のうち子神。鎌倉時代、運慶派の職人の作とされる。高さは70cmくらいと小さめだが、ユーモラスなポーズといい表情といい、実に生き生きとした造形に驚かされる。頭上にちょこんと乗っかった鼠が可愛い。これが7、800年も前の作品とは。フィギュアに懸ける日本人の情熱と感性はこの頃から変わってないんだな。

江戸後期の古伊万里『染付鼠に大根図菊形皿』。大胆な構図。ぼかしの使い方もいい。

江戸後期の袱紗『紺地鼠に大根模様』。金糸をふんだんに使ったなんとも贅沢で御目出度い図。

教科書でお馴染み、青森県つがる市木造亀ヶ岡出土の土偶。イヌイットと日本人の関連を思わせるいわゆる遮光器土偶。縄文時代。

これまたお馴染み、縄文時代の『火焔土器』。新潟県長岡市馬高で出土したと言われるもの。実際に見ると、なんとも凄い造形だ。直径は50cm弱だが、サイズ以上の迫力を発散している。
1/2。東京国立博物館は平常展無料観覧日。国宝室に長谷川等伯(1539-1610)の『松林図屏風』(しょうりんずびょうぶ)を見に行った。6曲1双の紙本墨画。

禁止マークの表示されたものを除き、ここでは写真撮影がほぼおとがめなし(当然ながら、フラッシュや三脚の使用など明らかに人迷惑な行為は不可)。『松林図屏風』も撮影OKだった。実際にはこれだけの大作(高さ1568mm、伸ばした状態での幅7120mm)の全景を人が居ない状態で撮るのはまず無理とは言え、なんとも太っ腹で嬉しい限り。

遠目には霧に消え入る静謐な松林が極めて写実的に表現されているように見えるが、近づくとその筆遣いは意外なほど激しい。生々しく描かれているのは「松」ではなく「大気」なのだ。

上は斜め右からの写真。

上は斜め左からの写真。できれば広間にぽんと置いた状態で、自然光の変化とともに、もっと様々な角度から眺めてみたいところ。優れた屏風絵はそれ自体平面であると同時に、その可動性ゆえ空間を劇的に変貌させることの可能な道具でもある点が面白い。
限りなく疎な物性で空間を意味付けること。私たちにも等伯のような表現ができるだろうか。
10/7。新国立劇場で勅使川原三郎『消息 - Substance』。小劇場に入ったのはこの日が初めて。仮設的で濃密な空間。ステージとの距離が近い。しかし前方にはプロセニアムの上枠のような状態で吊られた造作があり、前面にずらりと並んだ蛍光灯が目を眩ませる。やがて光の緞帳が上昇し、暗転。
ステージ上がぼんやり明るくなると、左右に斜めに傾いた金属パイプが風にしなう竹林のように群れをなしており、ダンサーたちはその間から現れては消える。特に静と動を激しく繰り返す佐東利穂子氏の存在は凄まじい。時折、床面にライティングの描く円環が空間に狭い領域を生み出し、ダンスはその内外で展開する。ステージ上部は蚊帳のようなもので覆われており、その下面には床より若干小さなサイズの円環が、暗い中心を持つ月のようにぽっかりと浮かぶ。最奥の壁面に沿ってぶら下がった数個の電球もまたダンサーたちにそれぞれ小さな領域を提供する。
勅使川原氏の作品としては要素が多く、構成的にやや求心力を欠くようにも思われたが、もしかすると劇場の規模が変わればそれだけで随分と印象が変わるかもしれない。進化の予感のある作品だ。
11/4。彩の国さいたま芸術劇場で維新派『nostalgia』。20世紀初頭の南米を舞台に、騒乱と大戦の影の中で迫害を受ける移民カップルの出会いと、それぞれの旅を描く。
舞台の大仕掛け。断片的な台詞と抽象化された動作。形式的には変わらぬ維新派流のスペクタクルながら、全体を通しての印象はより生々しい。装置類にはいつもほどの圧倒的なボリュームは無く、替わりに巨大な書き割りがステージをレイヤーに分け、ダイナミックに入れ替わる。また、マスゲーム的な演出はいつも以上に洗練され、迫力のあるものとなっていた。史実を参照し、ほぼ時系列で組み立てられたストーリーは、維新派の作品としては異例に分かりやすい。
エンターテイメントとしてのクオリティが一気に高められ、猥雑さや手作り感が若干影を潜めてしまったことに寂しい心持ちも無くはない。それでも維新派が明確に新しい段階へと踏み出したことを祝福したいと思う。これが三部作の最初とのこと。引き続き登場するであろう着ぐるみ人形の<彼>、キャラクターたちの行く末など、今後の謎解きと展開が気にかかる。
12/16。再び新国立劇場・小劇場。勅使川原三郎『ミロク MIROKU』。勅使川原氏のソロ作品。三方をフラットな壁に囲まれたステージ上には装置らしいものが一切無い。勅使川原氏が静かに現れ、横長四角形を照射するよう制御されたライティングが壁面をグリッドパターン状に発光させ始める。壁は全面を蛍光ブルーに塗装されている。空間を支配する青い光の明滅と滑らかな動きの中で、蛍光オレンジのTシャツを着けた勅使川原氏が、残像とともにダンスする。
ステージ中央に四角いスポットライトが落とされると、ダンスはその領域を避けながら、あるいはその中に居る見えないダンサーとデュエットするようにして展開する。後半、裸電球が上部からぶら下がり、それを手にした勅使川原氏はソケットに付いたスイッチを入切しながら目まぐるしく動く。点光源から放たれる光によって壁面に拡大される勅使川原氏の影が、時折人間ではない「何か」を想起させる。
やがて青い光が上昇パターンを描きはじめ、静かにエンディングが訪れた。その様子を詳述することは避けておこう。ステージから客席に向かって真っ直ぐに吹いた一陣の風の肌触りを、おそらく私たちは決して忘れない。なんというシンプルで、ストレートで、心豊かな演出か。
SABURO TESHIGAWARA / KARAS
維新派
DANCE CUBE/アプローズ・ダンス!EAST
勅使川原三郎が新作『消息 - Substance』を上演(2007年11月号)
勅使川原三郎のソロ『ミロク MIROKU』(2008年1月号)
*リンク先中段以下に写真入記事
11/24。自由が丘『alternative』でランチの後、六本木へ移動。オオタファインアーツで『見附正康展』を見た。見附氏は1975年生まれの九谷焼の作家。現在「赤絵細描」の第一人者である福島武山氏(その作品と動画は必見)に師事し、石川県で活動している。「赤絵細描」は中国明代の赤絵金襴手を手本に金沢で発達した色絵のテクニック。
展示されていたのは大皿4点、蓋物2点、花瓶1点。シンプルなフォルムの器に描かれたパターンの細密さはあまりに凄まじく、じっと目を凝らさないとフォーカスが合わないほど。描かれているのは瓔珞(ようらく/古代インドの装身具をパターン化したもの)や七宝(しっぽう/円を重ねて繋いでいく仏教由来の吉祥文)と言った一般的な古文様だが、それらが同心円上に綺麗に配置された様は和風と言うよりむしろエキゾチック。異様なまでの細密さが、ある種呪術的な雰囲気を醸し出す。これまでに体験したことの無い感覚に、思わず息を呑んだ。
同日、銀座へ移動してMEGUMI OGITA GALLERYで『中村ケンゴ ”スピーチバルーン・イン・ザ・ビーナスと21世紀のダンス”』を見た。作品についての詳しい解説はこちら。マットな質感の中にやわらかな奥行きと光沢を秘めた画面(「近代の日本画」の技法で描かれている)が、ほぼモノトーンに近い配色によって力強く引き立つ。特に『21世紀のダンス』のシリーズは、マティスの絵画をサンプリング・再構成した結果、自然物モチーフのパターン(例えばトード・ボーンチェなど)を思わせるファッショナブルさと、暗くシニカルな批評性を同時に獲得しているのが興味深い。
シリーズ中にはダンサーが黒で描かれたものと、白で描かれたものの二通りがある。個人的に、そのミステリアスさに心惹かれるのはやはり「黒」の方だが、明るさを装った「白」の方がコンセプト的にはより捩れている。どちらも魅力的だ。

11/30。打合せからの帰りに青山のCLEAR GALLERYで『倉俣史朗 Liberated Zone』を見た。倉俣のデザインした家具・プロダクト作品のうち、アクリルとガラスを主素材とする代表作が8点余り展示されている。私たちにはどの作品とも10年以上ぶりの再会だ。以前ならその存在感に圧倒されるばかりで、まったく目に入らなかったアクリルの継目や金物の溶接箇所を、今では冷静に見ることができる。当時持てる知恵と技術の粋を凝らした倉俣と制作者の共同を物語るそうしたディテールの囁き声に、私たちはそっと耳を傾けた。
展示作品中、その洗練性において際立っていたのが『Glass Chair』(硝子の椅子/1976/三保谷硝子製作)と『Luminous Chair』(光の椅子/1969/イシマル製作)だった。とりわけ『Glass Chair』のもつ非現実性は、現物を目の当たりにしない限り、まず実感することはできないものだ。倉俣の作品について語られる場合、そこに込められた夢とポエジーに主眼が置かれることが多い。しかし椅子や家具という概念に対するパロディとしてあまりに完璧な『Glass Chair』のデザインは、甘いロマンチシズムの彼岸にあると言っていい。『Glass Chair』のとなりに佇む『Miss Blanche』(ミス・ブランチ/1988/イシマル製作)は、なんだか少々申しわけなさそうで微笑ましかった。
『Miss Blanche』を除き、全ての作品はギャラリーで購入することができる。家具類にはおおよそ数十万円から数百万円の値が付いていた。今はとてもじゃないが、『Glass Chair』と『Luminous Chair』はいつか何とかして手に入れたいものだ。まずはどこにどうやって置くかが問題だな。
工芸とデザインと現代美術。もはやぼんやりと霞んでしまったその境界を、行き歩いたような3つの展覧会だった。
11/3。『Noi Shigemasa Exhibition ~The glass~』を見にリスン青山へ。心の師匠・野井成正さんデザインの新作インセンスホルダー(香立)の展示。通常はこの店の主要な商品展示台として使われているガラスのカウンターの上の半分近くが、この日はガラスのインセンスホルダーで埋まっていた。スタッフの方いわく、それでもイベントが始まった頃よりは少なくなったとのこと。すでにけっこう売れてしまったのだ。

買ったのは新作インセンスホルダーの大中小三種類のうち中(直径95mmくらい)と小(直径65mmくらい)。ガラスの台に真鍮製のリングが嵌り、スティック香が立てられるようになっている。ぽってりとした手作りガラスのフォルムは今にもはじけそうな水滴を思わせる。あるいは桜あんパンみたいでもある。やわらかで無駄の無い造形、涼しげな質感、ずっしりとした重み。一見すると意外だが、じっくりと味わえばたしかに、これもまた紛れも無い野井デザインだ。
11/16。『鳥獣戯画がやってきた! - 国宝「鳥獣人物戯画絵巻」の全貌』を見にサントリー美術館へ。甲乙丙丁の4巻(鳥獣戯画として一般に馴染み深いのは甲巻)全てに加え、作画・由来的に関連性のある種々の作品を集めて展示する内容。昔の教科書だと鳥獣戯画は鳥羽僧正の作とあったが、実物を見ると甲乙巻、丙巻、丁巻で作者が異なることは素人目にも明らかで、クオリティ的にも雲泥の開きがある。特に甲巻は後年になってかなりの部分が継ぎ接ぎされており、もとはその一部だったものが切り取られて別の掛軸になっていたりもする。断簡と呼ばれるそうした部分や写し、模本などを手がかりに甲巻の原型について考察する展示は、難解ではあるがその分じっくりと楽しめるものとなっている。
それにしても、玉石含めて模造品には事欠かない甲巻だが、オリジナルの迫力は本当に凄い。迷い無く、生命感溢れる筆致で描かれた線画のキャラクターたちにすっかり心を奪われてしまった。とにかく凶悪なまでに可愛らしく、繊細で、完成度が高いのだ。現在は展示替えで各巻の後半部分を見ることができるようになっている模様。もう一度見に行かなくちゃ。
それから『佐藤卓ディレクション「water」』を見に21_21 DESIGN SIGHTへ。水にまつわる様々なインスタレーション、立体、平面作品が全部で38種。食材の製造に要する水の量を示す『見えない水の発券機』(竹村真一,佐藤卓)、超撥水コーティングのステージに水滴が踊る『鹿威し』(原研哉)などが印象に残った。それぞれにスケールを置き換えた『猫の傘』と『ねずみの水滴』(佐藤卓)もチャーミングなインスタレーション。シンプルだが、リアリティのある作り込みにはっとさせられる。
ミッドタウンでもうひとつ。『とらや』に立ち寄ったところ、店内のギャラリーで『寿ぎのかたち展』が開催中。伝統的な折形、水引とその製作過程にまつわる展示に加え、オリジナル商品も見ることができた。田中七郎商店による水引の造形は実に優美なもの。伝統的折形の雛形に見られる工夫と、そのバリエーションの豊富さには驚いた。折形デザイン研究所、田中七郎商店、とらやの協同によるぽち袋を後で購入しようと思ったが、上のふたつの展覧会を見ている間にすっかり忘れていた。こちらも要再訪。
さらに同日、自由が丘に移動してバスで深沢不動前へ。天童木工PLYで『柳宗理 家具展 2007』を見た。現在新品として購入可能な柳デザインの家具を一覧することのできる内容。特にあまり出会う機会の無いダイニングテーブルを、スタッフの方からご説明をいただきながらじっくり見ることができたのは有り難かった。強度と機能の両立のために考え抜かれた天板裏の構造と、面取りの手法に思わず唸る。また、今年初めに東京都近代美術館の展覧会『柳宗理 生活のなかのデザイン』で見た『デスク』(1997)が新作の『Yanagi Desk』(白崎木工製)として販売されていた。鋭角的でソリッドなフォルムと重厚な無垢材の質感は柳デザインの家具には珍しい。こちらも興味深く拝見した。

Tendo Classicsのカタログと『亀車』(1965/全長12cmほど/別アングルの写真)を購入。宮城県鳴子の木地こけしの老舗『高亀』のために柳氏がデザインしたもの。箱が無かったのは残念だが、入手できたのは幸運。ろくろ引きの手法を生かした見事な造形。キモ可愛い。
10/16。午後過ぎから出光美術館の『没後170年記念 仙厓・センガイ・SENGAI 禅画にあそぶ』へ。仙厓(1750-1837)は日本最初の禅寺・博多の聖福寺の住職として1800年前後の再興に務めた禅僧。宗教者としての業績だけでなく書画においても優れた人物だったが、ある時期(1810年前後と言われる)を境に細密画を描かなくなり、以後「うまへた」な水墨作品を描き続けた。その過激なまでの脱力具合、禅を極めた境地から発せられる破壊的な賛文は、簡単に「ユーモラス」などと言えるような代物ではない。『一円相画賛』などはその最たるものだろう(「これくふて茶のめ」って。。。)。展覧会では出光美術館の有する日本最大のコレクションを通して仙厓の作品と生涯が網羅的に紹介されており、そのボリュームたるや大変なものだった。図録は『指月布袋画賛』や『○△□』が見開きでまっぷたつに掲載されていたのが残念。

神保町へ移動して南洋堂書店の『菊地宏展 - 光の到達するところ』へ。菊地宏氏の手がけたリノベーション(2007年8月完成)によって、建物(1980年築/土岐新設計)は通りに対してずいぶんと開放的になり、客動線は整理されていた。4Fのギャラリースペース『N+』での展示は合板やコンクリートを用いた模型を中心とする内容。アーシーな質感が印象的。小さなモニターでループしていた各作品の紹介映像には工事中の風景が多く含まれていた。カオティックな現場に少ない手数で端正な表情が与えられてゆく様は興味深い。中でも『LUZ STORE』は現存しているうちにぜひ見ておきたかった作品。『毎週住宅を作る会』を見ていた頃はこんなに力強い作風の建築家になる人だとは予想していなかった。月日は人を変えるのだ。翻って見ると、ウチは当時からあまり変化も成長もしていないような。いかんなあ。
竹橋方面へ移動してKANDADAの『伊藤敦個展「"777"」』へ。パチンコにまつわる様々な社会的、あるいは個人的な事情を、批判するでも肯定するでもなく、端的に示す作品の数々。インスタレーションや立体、映像によるその乾き切った表現は時に痛々しく、時に生々しい。廃棄されたパチンコ台のパーツをそのまま簡潔に再構成したシリーズ『"777" - Flower - 』では、その過剰な造形とイルミネーションに息を呑んだ。脇のプラズマモニターから流れる地方のパチンコホールの映像へと目をやると、空間を覆いつくす凄まじいまでのアイコンの羅列に思わず目眩を覚える。パチンコホールは現代日本におけるウルトラバロックなのだ。彫刻作品『"777" - Home - 』はパチンコホールのちいさな模型。エントランスの脇にぽつんと置かれた姿は妙に懐かしく、郷愁に似た感覚を誘うものだった。
10/24。松屋のデザインコレクションで『alternative』のための資材調達をした際に、デザインギャラリーで開催中だった『PHランプと北欧のあかり』を見た。PHランプの開発過程とそのバリエーション展開を概観する内容は、個人的にはこれまでほとんどまとめて見たことのなかったもので、大変勉強になった。配布されていた資料に掲載されていたポール・ヘニングセンの言葉はなかなか辛辣で興味深い。以下引用。
「夜を昼に変えることなど不可能だ。わたしたちは24時間周期のリズムで生きており、人間は爽やかな昼の光から暖かみのある夕暮れへの移ろいに、ゆっくりと順応するようにできているのだ。家庭での人工照明は、言うなれば、黄昏どきの光の状態と調和すべきであり、それは、黄昏特有の暖かみのある色の光を使うことによって実現可能だ。夕刻、ほかの部屋にはまだ薄明かりが残っているような時間に、冷たい蛍光灯がリビングルームで煌々と光っていては不自然だ。そして、強烈な光は目をくらませ、物の色は正しく再現されず、自然な陰影は生まれない。」
さらに同フロアの画廊で開催されていた『寺本守 銀彩展』へ。まったくのノーチェックでふらりと訪れたが、これが素晴らしかった。線描の上絵付に銀箔・銀泥を施してから掻き落とし、低火度で焼きつける手法で作られた陶芸作品のシリーズ。深みのある表情とクールな佇まい。思わず衝動買いしそうになったが、なんとか思いとどまった。今度出会った時のために貯金しとこう。
8/18。国立能楽堂『納涼茂山狂言祭2007』の夜公演へ。ここで茂山狂言を見るのは昨年に続いて2度目。相変わらず国立能楽堂は気楽でいい。勝野は竺仙の絹紅梅、ヤギはTシャツにジーンズ、という他の能楽堂だと着物マダムの皆さんに白い目で見られそうな出で立ちだったが、ここでは余計な気遣いをしなくて済む。
建物は大江宏建築事務所1983年の作。外苑西通りと明治通りを繋ぐJRの線路脇の道を、その中ほどで少し住宅街の側に入ると柿葺(こけらぶき)を模した金属屋根が折り重なって表れる。

ファサードや外構のデザインはまとまりに欠けるが、インテリアは見事なものだ。上の写真は終演後の舞台。光源をほとんど意識させない超フラットなライティングが異空間を浮かび上がらせる。

上の写真はエントランスロビー。上部に木製ルーバーを設けた開口部のデザインが巨大な半蔀(はじとみ)を彷彿させる。

上の写真はエントランスロビーからホワイエへと続くメイン通路。中庭(写真右)を半周するようにして横ルーバーの意匠が続く。

ホワイエで天井は一段と高くなる。上部はぐるりと光壁。縦向きとなった木製ルーバーがそのスケール感を強調する。見所の外側にある通路(写真左)を含め、舞台以外のライティングには蛍光灯が上手く使われている。
最初の演目は京極夏彦作の『豆腐小僧』。千之丞氏演じる豆腐小僧の可愛らしさと、千五郎氏演じる大名の雷親父ぶりの対比が実に鮮やか。休憩をはさんでの『三人かたは』はナンセンスの極み。笑いのパワーが凄い。最後の『神鳴』(かみなり)は田楽の流れを汲む楽しくおめでたい演目。八百万の神の国に住む民衆の厚かましさとたくましさに思いを巡らせつつ、大いに笑わせていただいた。
7月に見た展覧会のうち現代美術系の3つについてのメモ。

鈴木真吾個展「手のひらを太陽に」 2007/7/6-28 KANDADA
会場の『KANDADA』はコマンドNが運営するアートスペース。印刷会社・精興社の1Fを活用した白く天井の高い空間。6点あまりの立体作品とインスタレーションはどれもチェーンリング、パーラービーズ、マッチ棒、コインなど、無数の小さなパーツを丹念に組み上げることで大小のミニマルなボリュームを形成するもの。鈴木氏はこれらを個と社会の関わりのメタファーとして捉えている。どの作品にも純粋かつ単純であるが故の驚きがあり、美しい。中でも一円玉をミラーボールに仕立てた作品『きらきらぼし』は感動的だ。壁や床に投影された無数の円形の中に、縮小された一円玉の模様がうっすらと浮かび上がる様は、鈴木氏も全く予想していなかったものだと言う。『1000のバイオリン』は黒い折り鶴を25×40(=1000)のグリッド状に壁面へと配列し、参加者が折った千円札の折り鶴と交換してゆくプロジェクト。上の写真は勝野とヤギが交換してきた折り鶴。千円札と同じサイズの紙を折っているためこんなかたちに。鈴木氏のサイン入り。どうにかして額装したいと思っている。
須田悦弘展 2007/6/26-7/28 ギャラリー小柳
植物を象った木彫数点での新作展。ギャラリーは銀座の外れにあるビル8Fの割合に広いスペース。白い壁の所々に剥き出しのコンクリート柱が露出しており、須田氏ならではのハイパーリアルで繊細な造形による朝顔や菖蒲などの夏草が、その片隅から生えてきたような姿でさりげなく、点々と置かれていた。ひとつひとつの作品は見事だが、空間的な工夫を感じる展示ではなく、以前に見た資生堂ギャラリーでの展覧会に比べると全体の印象は弱い。価格表を見ると大きめの作品には400万円以上の値が付いており、全て売約済み。さすが。でも私たちにとっては入口エレベーター脇のカウンター下にひっそりと展示されていた雑草の木彫(非売品)が最も魅力的だった。
アニアス・ワイルダー展 7/7-31 INAXギャラリー2
イギリスのアーティスト、アニアス・ワイルダー氏によるインスタレーション展。6mの全長を持つ無数の木片を規則的に組み上げた八角柱の造形が、ギャラリーの両壁をつなぐかたちで宙に浮かぶ。信じ難いことにこの横倒しの積み木には釘や接着剤などは一切用いられておらず、両端からの圧力だけで支えられていた。軽量鉄骨にボード貼のような内装壁では強度が足りないため、両壁の一部はくり抜かれ、鉄筋コンクリートの躯体壁が露出した状態。力のかけ具合は造形と躯体壁の間に三角形の楔を打ち込むローテク極まりない手法で調整されていた。私たちが見に行った前日、東京では震度3の地震があったのだが、よく壊れなかったものだ。デザインや建築に携わる人間にはなんとも堪らない危うさ。それは数学的で、同時に呪術的でもある。
7/22。横須賀・カスヤの森現代美術館へ。市川平さんと西雅秋氏の展覧会『dialogue.3:形の方策』のオープニング。
市川さんの作品はメインの展示室をまるごと使った『ユニバーサル・システム』と題するインスタレーションだった。これは昨年JR仙台駅で開催された展覧会『待ち人の眼差し「駅 2006」Vol.1仙台』のために製作された作品の別バージョン。ブラックライトに照らされた蓄光のBB弾が傾斜したベルトコンベアで上方へと運ばれ、先端で透明樹脂板のレールへと落下。レールはもと来た場所へとBB弾を誘導し、一連の循環が繰り返される。重厚で単純極まりない機械のムーブメントを前にしばらく佇むと、しだいにBB弾と樹脂板のぶつかるパラパラという音が雨脚のように聞こえ、まるでマイナスイオンの立ちこめる中に居るような気分が訪れる。不思議な静謐。

この日のもうひとつの目的は『コンタクト・ドーム・ツアー・プロジェクト』の進捗を拝見すること。2002年から数年に渡って市川さんが継続中のプロジェクト。美術館の裏の林に鉄板のドームが立ち上がりつつある。上の写真はドームへのアプローチとその外観。

ドームの中に入って見上げると、気分は『未知との遭遇』。亜鉛メッキされた継ぎ接ぎの面と、無数に開けられた穴から漏れる光が美しい(アップの写真はこちら。右はドームの入口)。

その空間には大人が何十人も入れる広さがある。“建造物”と言って差し支えの無いこの立体作品を、市川さんはほとんど一人でつくり続けている。製作開始から5年を経て、脚もとは苔むしつつあった。
『コンタクト・ドーム』はこの秋に完成予定とのこと。今から楽しみだ。
市川 平・西 雅秋「dialogue.3:形の方策」(カスヤの森現代美術館)
最近見た映画4本についての簡単な覚え書き。
ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習
スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー
ボルベール <帰郷>
殯の森
以下、若干ネタバレ気味かもしれないので読みたい方だけどうぞ。
先月から6/11までの間に見たイベントについての簡単な覚え書き。
5/7。東京国際フォーラムで 「特選落語名人会」。出演は春風亭小朝、林家たい平、立川談春の三師。
開口一番・三遊亭歌ぶとさんの『道具屋』に続いて、いきなり小朝師匠の登場(普通どう考えても出番はトリだ)。この会はちょっと特別かもしれない、と予感。で、これまたいきなりの『浜野矩随(はまののりゆき)』。実在した江戸の名工を主人公とする講談がベースの大ネタだが、ここは軽妙に聞かせる。流石。そう言えば小朝師匠の古典を聞いたのはこれが初めてだ。
仲入を挟んでたい平師匠。『明烏』とまたもや大きな演目。吉原を舞台に商家の坊ちゃんが活躍、と来ればそれはもう師匠の持つ品と色気が最高に際立つ。野球ネタやドラえもんネタを挟みつつ、爆笑の中に爽やかさな後味を残す。
と、すでにお腹いっぱいのところでトリは一番若い談春師匠。「ジャンケンで負けた」、「イジメだ」、とボヤきながらも衣装は羽織袴と気合い十分。演目は『妾馬』の上(八五郎出世)。母親のキャラクターに若干の弱さを感じたものの、八五郎のガラの悪さとダメっぷりがなんとも魅力的。ハマり役だ。一見浮世離れして見える城の住人たちが八五郎のセリフに思わず涙を流すところでは、私たちも号泣。幕が降りる瞬間、談春師匠が客席に向かって拍手をする姿が見えた。ああ、今日は凄い会を見たんだな、と確信。
5/13。よみうりホールで「桂文珍独演会」。文珍師匠の会は一年ぶりくらい。演目は『マニュアル時代』と題した小噺、『天神山』と『七段目』。
とりわけ印象的だったのはこの日初めて聞いた『天神山』。内容は至ってシンプルでナンセンスだが、師匠の上品な語り口と、切ない狐の歌でのサゲが深い余韻となって心に響く。芝居台詞とお囃子を絶妙に織り交ぜながらの『七段目』は何度聞いても最高に楽しい。
5/23。歌舞伎座で「團菊祭五月大歌舞伎」昼の部。演目は『泥棒と若殿』、『勧進帳』、『与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)』の二場(木更津海岸見染の場、源氏店の場)と『女伊達』。歌舞伎を見るのはこの歳にして初めてのこと。落語の簡素さや生々しさとは対極的な、仕掛けと約束事の巨大な塊。その細部に役者の個性が時折こぼれるようにして露になる様子が興味深かった。
名優揃いの豪華なプログラムの中でも、市川海老蔵氏のセクシーさと存在感は群を抜いていた。こりゃ多少の悪さはしょうがないな、と納得。
6/1。世田谷パブリックシアターで「びーめん生活スペシャル」。小松政夫、イッセー尾形両氏の二人喜劇。
はっきり言って、小松の親分さんを生で見ることができるだけで涙が出るほど有り難いのだが、その内容は期待をはるかに上回る鮮烈さ。親分さんが尾形氏の作法に従って舞台の袖で観客の眼にさらされながらの衣装替えをすることにも驚いた。終止神経質そうな表情で下目使いのまま鬱々と狂気を発散する親分さんに対して、容赦なくツッコミを入れつつ(イッセー尾形のツッコミ!!)時たま意表をつく展開を持ち出して舞台を翻弄する尾形氏。ねじれた構図が強烈な可笑し味に満ちた空間を出現させる。そのシュールさは『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』(1976-79)でさえ到達しなかった地点にあるのではないかと思われた。こ、これはぜひともまた見なくては。親分さん、どうぞお達者で。
6/11。イイノホールで「立川談春独演会」。ここは素晴らしく舞台の見やすいワンスロープのホール。しかも座席は中段の真ん中と絶好の位置。おかげで談春師匠の細かな表情をしっかりと見て取ることができた。
藤原・陣内カップルを『紺屋高尾』に例えたりしつつ、結婚にまつわる心理を毒舌に次ぐ毒舌で茶化して大いに笑わせた枕に続き始まったのは『厩火事』。上記の会では「もしかして女性を演じるのは苦手なのかな?」と思ったのだが、この日のおさきさんの江戸っ子の年増女ぶりは素晴らしかった。得意のマシンガントークが可笑し過ぎて涙。怠け癖があって口の悪い八五郎が思わぬ優しさを見せるところで盛り上がりは最高潮。いい話しになりかけて感涙したところでストンと落とす。この展開だと結局のところ八五郎の本心がどうなのかは謎のまま。粋だ。
仲入に続いて『らくだ』を火屋までたっぷりと。後半は駆け足となったが、丁目の半次の描写は実に凄まじく、それでいて魅力的だった。
東京ミッドタウンのつづきでもうひとつ。オフィス・商業棟北側のミッドタウンガーデンへ出ると、その最奥に見える低層の別棟が『21_21 DESIGN SIGHT』(何と読むのだろう?)。建築デザインは安藤忠雄建築研究所。この日はギャラリー1でウィリアム・フォーサイス氏のインスタレーション『Additive Inverse』とアレッシオ・シルヴェストリン氏によるパフォーマンスを、ギャラリー2でオープニング展『安藤忠雄 2006年の現場 悪戦苦闘』を見ることができた。

建物としてのボリュームの大半を地下に埋めたデザインミュージアムは、それ自体が最良の常設作品だ。立体的な回遊動線がコンパクトに収められ、その造形的な内部を鈍い自然光が照らす。実に簡潔で力強い空間。おそらく国内でも指折りの安藤建築だろう。展覧会では図面や模型、素材サンプルなどの展示物の大半が長テーブル(建設用足場で組まれたもの)上にずらりと並べられ、観覧者はその周囲をベルトコンベアよろしく一方通行の動線に従って流れてゆくよう構成されていた。これまた笑えるくらいにシンプル。
ウィリアム・フォーサイス氏のインスタレーションはギャラリー中央に置かれたプール状の造作内をスモークで充たし、その上部から映像を投影するもの。プールの上に蓋は無く、ほんのちょっとした空気の流れが映像にゆらぎをもたらす。急いで動くとスモークが溢れて消えてしまいそうだ。陽炎のように幻想的で儚げな存在感が印象的。
アレッシオ・シルヴェストリン氏のダンスパフォーマンスが行われたのはスモークのプールから少し離れた場所。観客との距離のあまりの近さに驚いた。ほとんど見えるか見えないかの細い糸で自ら動きを拘束しながらの表現は、インスタレーションと同様極めて繊細で美しいものだった。
さて、そんな充実した内容の『21_21 DESIGN SIGHT』だったが、残念ながらその周辺環境はまともにデザインされているとは言い難い。建物の写真を少し引いて撮ろうとすると、途端に絵にならなくなってしまう。

この植栽とか、もう少しなんとかならなかったのだろうか(建物の背後に見える針葉樹の並木は実のところ隣地の中学校のもの)。水飲場とかベンチに至っては思わず泣けてくるような代物なんだなこれが。。。
東京ミッドタウン・とらやとMUJI(April 29, 2007)
東京ミッドタウン・SAYA、Ideaなど(April 30, 2007)
コーネリアスと花緑師匠。
4/5。CORNELIUS GROUP(小山田圭吾(Gt),あらきゆうこ(Dr&Fl),清水ひろたか(Gt&Bs),堀江博久(Key&Gt))のライブを見に渋谷AXへ。“SENSUOUS SYNCHRONIZED SHOW”のタイトルを与えられたステージは、4人の演奏とその背後一面の映像スクリーン、そしてフルカラーLEDを用いたライティングが見事にパッケージされたもの。カラフル。完璧。特に映像の素晴らしさは際立っていた。早くソフト化されないものか。
観客の年齢層はわりと高めで、まるで旧知の知り合いを見守るような、独特な暖かさのある落ち着いた雰囲気が心地良かった。かつてロリポップソニックだった人が、まさかこれほど強靭なオリジナリティを獲得し、『point』や『sensuous』のような傑作を生み出すとは世の中分からないものだ。歳をとるのも悪くないな。
4/13。鈴本演芸場4月中席夜の部へ。この日の鈴本は開席百五十周年記念特別公演として、『花緑まつり』と銘打ったプログラムが組まれていた。台所鬼〆さん『金明竹』、林家二楽師匠の紙切り、林家彦いち師匠『みんな知っている』、柳亭市馬師匠『一目上り』、林家たい平師匠『あくび指南』、翁家勝丸さんの太神楽曲芸、橘家圓太郎師匠『馬の尾』、林家正蔵師匠(この時はまだ祝儀隠しはバレていなかった)『豆腐小僧』で仲入り、と言う贅沢さ。皆さん素晴らしかったが、個人的に一番シビれたのはたい平師匠。あざとい顔芸でもやらない限りあまり笑いどころの無い地味めな演目を、なんとも味わい深く、かつ上品に演じられていた。
最後はいよいよ柳家花緑師匠の『子別れ』。上・中・下を通しでたっぷりと。くすぐるような笑いを散りばめながらの情感のこもった人情噺に何度も涙。明らかにこの日の花緑師匠は以前曳舟で見た時とは次元の違う輝きを放っていた。仲入り後の時間を独り占めできたことも功を奏し、そこには完成された骨太な世界がかたち作られていた。
おそらく落語家・花緑師匠の魅力は“語り部”としての無二の資質にあるのではないか。演じる人の生き方そのものが反映されるのも落語なら、噺の持つ可能性を最大限に引き出すのもまた落語なのだろう。表現する行為の持つ様々な側面とその奥深さについて、思わず考えを巡らせた。
柳家花緑(Wikipedia)
1、2月はなぜか落語を見る機会が少なかったが、今月は3本。加えてイッセー尾形の一人喜劇。
3/9。立川志らく独演会を銀座ブロッサムへ見に行った。昭和の三大名人に挑戦と銘打った高座での演目は『心眼』、『お直し』と『双蝶々』。どれも陰惨な内容の噺をどれだけ陽気に演じられるか、というのがテーマ。
志らく師匠の落語を見るのはこれが初めて。若干くぐもった言葉使いと、時折突発的に時事ネタを交えたりしながらの軽妙な話芸に独特の味わいがある。その場では大いに笑いながらも、後にはしんみりと重たい気分が残された。この感じはペドロ・アルモドバルか、北野武の映画を見た後にちょっと似ている。機会があれば志らく師匠の創作落語もぜひ見てみたい。
3/13。柳家花緑・林家たい平二人会を曳舟文化センターへ見に行った。
たい平師匠の演目は『お見立て』。お大尽を上手く騙そうとする喜助どんの芝居振りがみるみるエスカレートする様子があまりに見事で、お腹が痛くなるほど爆笑。たい平師匠の落語を見るのは昨年11月以来2回目だが、モダンで品格ある話芸に改めて感銘を受けた。今度は独演会を見なくちゃ。
花緑師匠を見るのは初めて。『不動坊』は以前に桂文珍師匠で見たことのある演目。両者を比較しながら興味深く拝見した。まだ独自の世界観を持つには到っていない印象ではあったが、仕草、動作の表現の仕方など抜群の演劇的上手さには見るものを引き込む力がある。今後が楽しみ。
3/15。赤坂レッドシアターの『イッセー尾形のとまらない生活 2007 in 赤坂』10日目へ。イッセー尾形氏の公演にはここ1、2年プレリザーブに申し込んではハズれっ放し。念願かなって小さな劇場で見ることのできたステージは、想像をはるかに上回る洗練性と、アヴァンギャルドさを兼ね備えたものだった。この日最初に演じたのはムード歌謡グループ・東京ナイツの老齢のバンマス。大道具無し、BGM無し、照明効果無しの舞台にキャラクターが克明な姿を持って立ち表れ、その瞬間ステージは錦糸町のホテルのラウンジとなる。以降、数本の演目の間に幕は無く、尾形氏が舞台の脇で観客の眼にさらされながら着替えとメイクを行うことにも驚いた。なんと凄まじい喜劇か。
3/17。春風亭昇太・立川談春二人会を町田市民ホールへ見に行った。
初めて見た談春師匠は『大工調べ(上)』。高座の前にマッサージを受けて力が抜けたので、と与太郎の登場する噺を選んだそうだがどうして、凶悪で小賢い与太郎は実に個性的。長屋の大家との交渉でブチ切れた棟梁の啖呵はまさしくマシンガンのスピードと重量感。以前に小三治師匠で見たものとはまるで別物の『大工調べ』に談春落語の片鱗を見せていただいた。ぜひ独演会を見たいが、全然チケットが取れないんだよなあ。。。
昇太師匠を見るのは2度目。演目は『愛宕山』。小判欲しさに荒唐無稽な大暴れを見せる太鼓持ちのキャラクターはまさに師匠のハマり役。
怒濤の年末年始も2月に入ってようやく終息を迎えつつある。11月時点で4つあった仕事は、ひとつが完成し、ふたつが途中で無くなり、またひとつ増えた。現在は店舗と住宅の現場が同時進行中。
以下はそんな状況下で無理矢理時間をつくって見に行ったイベントなどの簡単な覚え書き。
12/12。柳家小三治独演会を銀座ブロッサムへ見に行った。教育問題を枕に会場を大いに湧かせた後の演目は『大工調べ』。与太郎の間抜けぶりが最高だ。家主との口論の場面で終了。
中入りを挟んで『小言念仏』。最初の枕がかなり長かったため、こちらは手短に。独特の間合いで十二分に笑わせていただいたが、もう少し聞きたかった気も。また別の機会を楽しみにしよう。
柳家小三治(Wikipedia)
12/16。勅使川原三郎『ガラスの牙』を新国立劇場へ見に行った。ステージは大量のガラスの破片を敷き詰めたふたつのエリアと、その周辺で展開される。以前に見た『KAZAHANA』(2004)や『LUMINOUS』(2001)に比べると、セットもライティングもつくり込み自体はシンプルだが、ガラスの反射光の使い方が実に巧み。空間全体の表情が繊細に、刻々と変化する光景を目の当たりにして思わず息を呑む。
ダンスのテンションの高さはさらに強烈だ。特に勅使川原氏のソロパートは凄まじく、空恐ろしいほど。他のパートでのマイクを通した囁き声や叫び声、ひょっとこ踊りのようなユーモラスな動きも印象に残った。
1/3。TOHOシネマズ錦糸町で『鉄コン筋クリート』を見た。果てしなく重層する背景画によって作り上げられた世界と、その中を自在に飛び回り、加速減速するキャラクターたち。これは2Dアニメの限界を突破した21世紀の絵巻物語だ。
声優陣も、Plaidによる音楽も素晴らしい。演出的には終盤クロの精神世界を描くシーンが個人的に今ひとつ感情移入し辛かったが、他のまとめあげ方は見事。原作の感動を削ぐこと無く、質の高い映像作品となっている。
しかし最後の最後に流れるアジカンは最低。明らかに蛇足で、映画を汚している。
1/8。スターパインズカフェで近藤等則 ULTRA SESSIONS 2007 VOL.1の3日目を見た。正確無比な湊雅史のドラム、自由な展開を生み出す高田宗紀のターンテーブル、そしてメンバーを煽り、轟音を繰り出すレックのベース。ジャンル分け不能なグルーブを漂い、時に金切り声を上げるエレクトリックトランペット。フロアも終止大変な盛り上がり。
この日の近藤氏は心底楽しそうだった。20年ほど前に何度かみたIMAのライブではあり得なかったことだ。彼が日本のオーディエンスに失望して渡欧し、メジャーレーベルでは作品を発表しなくなってからずいぶん経った。おそらくその間に時代は変わったのだ。
年始早々凄いものを見た。幸先いいぞ。
近藤等則(Wikipedia)
1/12。spiralで手塚愛子展『薄い膜、地下の森』を見た。
展覧会タイトルとなったのは吹き抜けに設置された大作。直径7mの円形のスチールフレームに帆布を張り、毛糸で刺繍を施したもの。

刺繍面の下にはおびただしいボリュームの毛糸が垂れ下がっていた。フラットなパターンを描くために織られた5万本の毛糸は、造形的・空間的存在であると同時に、制作に費やされた気の遠くなるような時間と作業量そのものでもある。
他にも会場には織物を素材とする大小の作品が多数展示され、それぞれに興味をそそられた。

一見うすっぺらな情報の背後にあるものをシンプルかつ緻密な手法で暴き出すやり方は、素材の古めかしさに反して極めて現代的だ。
手塚愛子展『薄い膜、地下の森』(January 5-18, 2007)
ここのところlove the lifeとしてはかつてない忙しさ。クライアントの異なるちいさな仕事がいくつも同時進行していると、常に頭を使いっ放しの状態となり、作業を外注することが難しい。まさに孤軍奮闘(2人だけど)。一杯いっぱいとはこういうことか、などと思ったりもするが、今のところどの仕事もそこそこ楽しくやらせてもらっているので気分は良い。来週あたりにはそうも言ってられなくなるだろうけど。
さて、そんな状況下でも以前からチケットを取っておいたホールイベントにだけは足を運んでいる。以下はその内容についての覚え書き。
11/26。フィリップ・ドゥクフレ『SOLO』を天王洲・銀河劇場へ見に行った。
フィリップ・ドゥクフレ氏は一般的にはアルベールヒル冬期オリンピック開閉幕式の演出を手がけたことでよく知られるフランスの振付・演出家。氏のステージを実際に見るのはこれがはじめて。
フィリップ・ドゥクフレ氏と言えば奇抜なコスチュームとアクロバティックな演出、といったイメージが強いが、『SOLO』に登場するのはほとんど本人のみ。ダンスとそのライブ映像にビデオエフェクトを組み合わせての演出は、極めてシンプルながらまるで万華鏡を覗くかのように多彩なものだった。途中展開されるのは自身の生い立ちや家族を写真で紹介するパートと、それにまつわるエピソードから着想を得たパート、氏の身体表現のルーツである新体操の爆笑もののパロディや、尊敬するバスビー・バークレー(ミュージカル映画監督)へのオマージュなど。四十代も半ばを迎えたダンサーが、文字通り全身全霊をかけた貴重なパフォーマンスは、ダンスを見たと言うよりもエッセイか私小説を読み終えたかのような、不思議な印象を残した。
Cie DCA (Philippe Decoufle)
11/29。にっかん飛切落語会第308夜をイイノホールへ見に行った。演目は三笑亭亀次『道灌』、林家たい平『二番煎じ』、桂歌丸『井戸の茶碗』、桂快治『笠碁』、立川志の輔『Dear Family』。
たい平師匠を見るのは初めてだったが、正直、あんなに品格のある落語家だとは全く想像していなかった。今後はしっかりチェックさせていただかねば。歌丸師匠の演目は身分の違う2人の武士が正直者の屑屋を介して奇妙な縁で結ばれる人情話。美しい江戸弁が冴え渡り、可笑しくも心温まる。快治さんの芸は静かだが洗練されている。この人は大化けするんじゃないか。トリの志の輔師匠(やはり見るのは初めて)は現代ものの創作落語。セリフそのものは核家族にいかにもよくありそうなものだが、絶妙に練り込まれたシュールな展開と師匠の素晴らしく良く通る声が、狂気と爆笑の波動となって観客席を包み込む。凄いものを見た。
12/7。マドレデウスのコンサートをオーチャードホールへ見に行った。ポルトガルの5人ユニット。2本のクラシックギターとアコースティックベースとシンセサイザー、そしてテレーザ・サルゲイロの神懸かり的なヴォーカル。透きとおるようなハイトーンヴォイスをファド(ポルトガルの歌謡)特有のビブラートが揺らす。これ以上何も言えない。号泣。
Madredeus
MADREDEUS unofficial website
10/13。神保町で打合せの後、青山へ移動。Originで髪を切ってからギャラリー5610で開催中の『2人展「河野鷹思+Max Huber」』を見た。

河野鷹思(1906-1999)についてはこちらのエントリーを参照のこと。『商店建築デザイン選書』の装丁を手がけており、自身も和食店のアートディレクションを行っているため、グラフィックデザイナーのみならず、インテリアデザイナーにとっても馴染みのある先人だ。
マックス・フーバー(1919-1992)はスイスのグラフィックデザイナー。リナシャンテ、オリベッティ、ボルサリーノなどイタリア企業とのコラボレーションにおいて多くの業績を残している。バウハウスからの影響の見られるフォントや画面構成、そしてクリアでカラフルな色使いによるエレガントなデザインは、現代においても全く古さを感じさせない。今年スイスに美術館『m.a.x.Museo』がオープン。また没後初の作品集も刊行された。
展示されているのはポスターと装丁の作品が各20点ほど。おそらくなんらかの都合があってのことだとは思うが、マックス・フーバーの作品は比較的渋めなものばかりで(それでもジャコメッティの展覧会ポスターの構成は素晴らしかった)、結果的に河野鷹思の凄みが際立っていたように思う。上記の作品集の内容が素晴らしかっただけに少々残念だが、同じ印刷物と言えども書籍と実物とでは丸きり体験の質が違うこともまた事実。20世紀半ばのグラフィックデザインが持つ力強さを文字通り目と鼻の先で体感できる貴重な機会であることは間違いない。会期は水曜日までなのでお早めに。
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さらに日暮里へ移動して、SCAI THE BATHHOUSEで開催されていたジェニー・ホルツァー(1950-)氏の展覧会へ。『Xenon』プロジェクトを記録した写真の超大判プリントが数点と、84個の小型LEDディスプレイによるインスタレーション。
『Xenon』はキセノンランプによるプロジェクターを用いて世界各地のパブリックスペースにテキストメッセージを投影するインスタレーション。英語力がからきし無いため、どんなメッセージが投影されているのかは私たちには分からない。しかし歴史的建造物に対して、その形状とはまるで無関係にべったりと貼り付いたサンセリフの巨大なテキストは、それ自体が十二分にショッキングなビジュアル。畳一帖分くらいの大きさはありそうなマットな印画紙にプリントされたモノクロの緻密な画面が、そのインパクトをさらに強烈なものにしていた。
展示室奥の壁一面を使ったインスタレーションは、葉書よりひとまわり大きいくらいのLEDユニットの配置で構成されていた。各ユニットごとにタイミングをずらしながら横流れに表示される同一のテキストメッセージは、その輝度の高さと単純さにおいてある種暴力的であると同時に極めてスタイリッシュでもある。何が述べられているのかが分からないだけに、私たちにとってこのカッコ良さはかえって危険だ。ユニットごとにバラ売りしていたので、思わず衝動買いしそうになったが、ひとまずぐっとこらえておく。
近頃いわゆるファインアートに飽きが来てしまっている私たちだが、この展覧会の完璧なプレゼンテーションと、作品のプロダクトとしてのクオリティの高さにはすっかりやられてしまった。グラフィックとか建築とか、あるいはアートとかデザインとか、そう言った既存のフォーマットを無効にしながら自らを環境化してゆくような表現に強く惹かれる。
JENNY HOLZER : FOR THE CITY (CREATIVETIME)
Neue Nationalgalerie: Installation von Jenny Holzer (YouTube)
ベルリン新国立ギャラリー(設計:ミース・ファン・デル・ローエ)での展示
9/18。東京国立博物館で抱一の『夏秋草図屏風』を見たついでに他の展示作品も少しだけ鑑賞。中でも抜群にグッと来たのがこの小さな襖絵。

円山応瑞『鯉魚図襖』。応挙の子息による極めて洗練された画。
それにしたって、なんでまたこのアングルなのか。

全体を見るとこんな感じ。左側の画面が至ってまっとうに描かれていることから、画面の途中で空間がねじれたような印象が生まれている。こういうアヴァンギャルドなのが18世紀あたりにシレっと描かれてたりするのが日本画の面白いところ。
9/12。出光美術館へ『国宝 風神雷神図屏風「宗達・光琳・抱一/琳派芸術の継承と創造」』を見に行った。俵屋宗達(生没年不詳)、尾形光琳(1658-1716)、酒井抱一(1761-1829)がそれぞれに描いた『風神雷神図屏風』が66年ぶりに一同に会する展覧会。
前半の展示は3つの『風神雷神図屏風』に詳細な解説パネルを加えて構成されている。時折ふたつの図をCG処理で重ね合わせながらの比較は分かり易く、参考となるものだった。
後半は梅、杜若、秋草などの画題において、宗達・光琳・抱一のあいだでどのような参照と展開があったのかを紹介する展示となっている。こちらも風神雷神図に劣らず充実した内容。
『風神雷神図屏風』に限って率直な感想を言えば、宗達のオリジナルに勝るものは無い。光琳、抱一とコピーを重ねるごとに描写は良くも悪くもマンガ化してゆく。それは結局のところ、光琳、抱一の風神雷神図がスタディの域内にあることを示すのだろう。
オリジナルを乗り越えて新たなオリジナルを生み出すことは、参照をなくしてはあり得ないのもまた事実。現に風神雷神図を経た上で、光琳の『紅白梅図屏風』、抱一の『夏秋草図屏風』という二曲一双(二枚一組の二つ折り屏風)の傑作が生まれている。
と、そんなことを、展覧会の前半・後半を通して見ることで明快に理解することができた。『紅白梅図屏風』を見ることができなかったのは残念だが(同じ画題で風神雷神図との関連の薄い六曲一双屏風は展示されている)、『夏秋草図屏風』の草稿が展示されているのは何とも嬉しい。実に構成の巧みな好企画だった。勉強になりました。

さて、抱一の『夏秋草図屏風』(1821)だが、ちょうど先日まで東京国立博物館・本館7室での展示が行われていた。そんなわけで、9/18の最終日に滑り込み。敬老の日ということで、入館料が無料というおまけ付き。しかも国立博物館の平常展は、一部を除いて作品の写真撮影がOK(もちろんフラッシュはNG)と来ている。おお、太っ腹。
展示室を訪れると、東京芸大の学生さんによる『夏秋草図屏風』の解説が始まったところ。資料をもらって、興味深く拝聴させていただいた。
写真の方は全部ピンボケ。無念。
この屏風絵はもともと光琳の『風神雷神図屏風』の裏側に抱一が描いたもので、1974年に保存のため分離された。その構図や画題の選択には表側との様々な符合があることが知られている。
金地に浮かぶ天上の神々。応える野の草花は銀地を背景に匂い立つ。瑞々しく、かつ装飾的で、夢の光景にも似た抱一晩年の表現は、180年以上を経た今でも斬新なままだ。
国宝 風神雷神図屏風「宗達・光琳・抱一/琳派芸術の継承と創造」
「重文 夏秋草図屏風 酒井抱一筆」 公開
9/12。青山・spiralで『lumps & bumps —ラング/バウマン的スパイラルの感じ方—』を見に行った。勝野は9日に続いての再訪。
ラング/バウマンはスイスの2人組アートユニット。日本でのイベントはこれが最初とのこと。

インクジェットプリントのカーペットによる『beautiful corner #4』。カフェのフロアにも作品が敷き詰められている。
もう、ずっとこのままにしといていいんじゃないか、と思わせる完成度の高さ。

アトリウムには巨大なバルーンがぎっしり。こちらは『comfort #2』という作品。バルーンには人が乗っても大丈夫な強度があって、子供はもちろん、時には大人もこの上で飛び跳ねたりしている。運動神経の鈍い私たちは遠慮しておいた。
スロープを上り、アトリウムを見下ろすと、有機的な形態が内蔵組織を思わせる。この日は昼休みをバルーンの上で寝て過ごす人が一人。

アトリウムからスパイラルマーケットを抜けたところのオープンスペースへ。こちらにもインスタレーション『perfect #4』が。同一形状のゴールド色の樹脂性ブロックが、様々な向きで壁面に配置されている。青山通りを見下ろす窓面が、ゴールドの半透明シートで覆われているのも面白い。
どの作品も理屈抜きで楽しく、しかもspiralの空間(設計は槇総合計画事務所/槇文彦氏)が持つ魅力を見事に引き出していることに感銘を受けた。ラング/バウマンのホームページに掲載された作品を見た限り、このプロジェクトはおそらく彼らにとって代表的な仕事のひとつになりそう。いろんな意味で、必見の大穴イベントだ。
8/27。東京国立博物館で開催されていた『プライスコレクション 若中と江戸絵画』の最終日に滑り込み。
16:00頃に正門を訪れると、入場まで30分待ちとのこと。平成館前にずらりと延びた行列の最後尾に並ぶ。思いのほか進みは早く、10分くらいで館内へ。エスカレーターを挟んで6室に分かれた会場のうち、やたらと混雑していたのは若沖作品が多数展示されていた2番目の部屋まで。以降は割合ゆったりと観ることができた。閉館の30分ほど前にガラガラの会場を逆行して、若沖をもう一度鑑賞。『鶴図屏風』に見られる単純化されたフォルムとそのバリエーション、『雪中鴛鴦図』の水中から半身をのぞかせるオシドリを中心とする巧みな画面構成に唸る。
広告物でのメインビジュアルとして用いられていた『紫陽花双鶏図』も、展示の目玉として扱われていた『鳥獣花木図屏風』も無論素晴らしかったが、このイベントの最大の見所はなんと言っても最後の2室にあったジョー・プライス氏入魂の特別展示だろう。ここで展示作品を照らすのは主に側方からのライティング。その光量と色温度はゆっくりと変化するようにプログラムされていた。作品のセレクトは明らかに演出効果を引き出すことを主眼においたもので、そこにテーマや歴史的な意味合いでの一貫性が無かったことは残念と言えば残念だが、日本家屋での自然光のうつろいを思わせるライティングのもと、各作品が見せる様々な表情はとても興味深いものだった。
この展示で最も印象的だったのは酒井抱一の『佐野渡図屏風』と『十二か月花鳥図』。おそらくフラットなライティングのもとでは何でも無い画面にしか見えないであろう『佐野渡図屏風』が、静かに降り積もりつつある雪をあれほど豊かに表現したものであったとは、まさに目からウロコだ。『雪中美人図』(礒田湖龍斎)に描かれた白地に白い柄の着物の表現、『白象黒牛図屏風』(長沢芦雪)の大胆なデフォルメと構成も見事だった。
9/23から開催される京都展では『十二か月花鳥図』をなんと自然光のもとで展示するらしい。これを観るためだけにでも京都に行きたくなるなあ。合わせて細見美術館で鈴木其一も観たい(傑作揃いのプライスコレクションだが、其一についてはどうも不発気味だった気がするのは私たちだけだろうか?)。
他にも記憶に残る作品を挙げ始めるときりがないくらいだが、中でも森狙仙の描く猿(『梅花猿猴図』と『猿猴狙蜂図』)には強烈に心を動かされた。一瞬を捉えたその間合いの美しいこと。
7/15。横浜美術館へ『日本X画展(にほんガテン!) しょく発する6人』を見に行った。
展覧会タイトルに付けられた脱力系のフリガナが否応無しに危険な香りを感じさせるが、とにかくケンゴさん(中村ケンゴ氏)の新作があるんだから見に行こう、と言うわけで開会式が終わった頃に到着。ものすごく顔色の悪いケンゴさん(お疲れさまです)に軽くご挨拶してから順路に沿って会場を一周した。
横浜美術館の企画展示室はアトリウムに面したオープンスペースを中心にバラバラと配置されていて、ひとつの部屋から別の部屋への移動にはその都度このオープンスペースを介することになる。一人の作家やひとつのムーブメントの変遷を追うような展覧会だと、せっかく高まった集中力をいちいちリセットされるような動線に興醒めとなることが多いが、『日本X画展』は6人の全く作風の異なる作家を併置する内容だったため、このオープンスペースが各作家間のちょうど良い干渉としてめずらしく有効に働いていたように思う。なるほど今時の日本画界(とその周辺)はけっこう面白いことになっていそうだな、と、日本画の知識を全く持たない私たちにも興味深く楽しむことの出来る展覧会だった。
さて、ケンゴさんの作品があれほど贅沢に展示されているのを見るのは初めてだったが、中でもこの展覧会のために多くを追加制作したという『コンポジショントウキョウ』シリーズは圧巻のボリューム。一見して無表情な記号的モチーフをわざわざ日本画の技法で描くやり方は、デザイナーならまず感涙もののクールさだ。これを見るだけでも観覧料分の値打ちがある。『スピーチバルーンズ・イン・ザ・ヒノマル』と横山大観『霊峰不二』の見事な共演にもシビれた。濃淡のある画面上にフラットな記号がレイヤー状に重なったような新作シリーズ『自分以外』は新しい方向性を感じさせるものだった。
他の作品ではしりあがり寿氏の巨大インスタレーションがなんとも痛快。『琳派 RIMPA』(東京国立近代美術館/2004)にも作品を提供していた中上清氏による深遠な世界からの光を感じさせるアクリル画は、平面を超えた「もの」としての迫力に満ちた衝撃的な作品だった。
日本X画展(にほんガテン!) しょく発する6人(横浜美術館)
3/26。銀座・SHISEIDO GALLERYで開催されていた『life/art '05』へ最終日の夕方に滑り込み。
このイベントは田中信行氏、今村源氏、金沢健一氏、中村政人氏、須田悦弘氏のリレー展。本当は全部見ておきたかったんだけど、結局2回しか来られなかった。残念。
この日の展示は須田悦弘氏。ギャラリーで須田氏の展示を見るのは初めてのこと。
過去に私たちが須田氏の作品を実際に見たのは2001年に香川県の直島で開催された『スタンダード展』だけ。島中に散らばった会場のうち、須田氏は実際に使われている民家の客間でインスタレーションを行っていた。木彫は日用品へと偽装され、そのことが生活空間の中に微妙な違和感を醸し出す。生活とアートとの関係性を操作し、関係性そのものを作品とする須田氏の作風は、空間デザインを生業とする私たちにとって極めて興味深いものだった。
ここでの須田氏の展示は素のハコとしてさらけだされたSHISEIDO GALLERYの真っ白な空間にちいさな作品が数点のみ。からっぽにしか見えない会場の中を注意深く歩くと、本物に見紛うほどリアルな椿の花(言わずと知れた資生堂のシンボル)の木彫が思わぬところにぽつんと置いてある。エレベーターシャフトを覆うガラスの中、パイプスペースのメンテナンス扉の内側などにそれらを見つけると、途端にその場所が茶会の床となり、さまよい歩いた過程はさながら露地だったのだと思い当たる。インスタレーションも巧みだが、ここまでミニマル化された間合いの芸術は、やはり木彫そのものに力が無い限り実現することはないだろう。
会場の一角に木彫たちを一望することのできる場所があった。不整形な平面を持つギャラリーが、そこに立った時だけ奇麗な左右対称のパースペクティブを見せることに私たちは少し驚いた。
もしかすると須田氏もここからこの空間を眺めたのだろうか。
life/art '05 (SHISEIDO GALLERY)
3/18。世田谷パブリックシアターに山海塾の『時の中の時 - とき』を見に行った。計5作品が上演される日本ツアー2006のオープニングとなる作品で、2005年12月・パリ市立劇場初演の最新作。
落語にしろダンスにしろ芝居にしろ、パフォーミングアートというものは実際に劇場の座席に身を置かずに評価をする事は丸きり不可能だ。とは言え、予備知識の無い状態で面白そうかどうかを判断するには、チラシや雑誌に載った写真などを見てなんとなく空想を膨らませるより他は無かったりする。
私たちは劇場にはたまにしか足を運ばないのであまりあてにはならないかもしれないが、そうして事前に得られる印象と実際のステージから受ける印象との間に、山海塾ほど開きのあるダンスカンパニーもおそらく少ないんじゃないかと思う。だいいち、全身を白塗りにした半裸の男性が身をよじらせる写真を見て「なんか良さそう」と思う人よりも「気色悪っ」とドン引きする人の方がはるかに多いに決まっている。
ところが、山海塾のステージからは写真で見るようなおどろおどろしさとはほとんど感じられない。それは実に美しく洗練され、時にユーモラスで可愛らしくさえある。
『時の中の時 - とき』はおそらく山海塾の作品の中でも割合要素の少ないもののひとつだろう。中空に浮かんだ細い金属パイプのサークルとポール、明るい砂の上に斜めに敷かれた長方形の板、それらを取り囲むように半円形に配置された数枚の黒い壁の中、パフォーマンスは終止静かな動きによって展開される。装置の入れ替えはほぼ無いに等しいが、ほんのわずかな高さや角度、光の移ろいによって、ステージは刻一刻とその表情を変えてゆく。それらの微妙な間合いが醸す気配のようなものがこの作品の全てであると言って良いだろう。そして一際明るい光と軽やかな群舞がもたらす甘美なクライマックスが、そのままこの作品の幕引きとなる。
この世界をもっと見ていたい。そう思わずにはいられない作品だ。このツアーでは一公演だけ見るつもりだったんだけど、ロビーの仮設テーブルで売られていた次作のチケットをついまた買ってしまった。
3/4。宮島達男「FRAGILE」を見に行った。
場所は谷中霊園そばの『SCAI THE BATHHOUSE』。当地に200年ほどの歴史をもつ銭湯『柏湯』を改装したギャラリー。天井高のある魅力的な大空間を持つ。下の写真はその外観。

宮島氏の新作展を見るのは2002年にここで開催された「WHITE IN YOU」以来のこと。当時の展示を思い出しながら、今回の「FRAGILE」を見ると面白い。どちらも宮島氏のトレードマークとも言える7セグのデジタルカウンターを主要な素材としてはいるんだけど、それぞれの作品シリーズの印象は対照的だ。
『WHITE IN YOU』(2002)はLEDと平面ミラーの組み合わせによる作品シリーズ。LEDの発光部分のみ銀吹きを抜いたミラーの底から白い数字が浮かび上がる。えも言われぬ奥行き感を伴ったそれらの作品は、およそハードウェアとしての実体を意識させないほど細部まで見事に洗練されていた(まさにデザイナー魂をシビれさせるオブジェ)。
対して今回の『FRAGILE』(2006)ではおそらく配線を兼ねた網状の立体フレームの中に無数の小さな赤いLEDカウンターがちりばめられている。カウンターの配置はランダムで、カウントするスピードもまちまちだが、直径1mmに満たないようなか細いフレームによって繋がり合い、互いに支え合うようでもある。FRAGILEのタイトル通り、それらの存在はいかにも脆く儚げだ。他に水槽と赤色LEDによる作品や、タペストリーガラスにカウントが浮かび上がる作品『Counter Window』の展示もあった。
「WHITE IN YOU」と「FRAGILE」の対比は私たちに“聖”と“俗”を思い起こさせる。それらは一見遠く隔たっているようだけど、どちらも私たちの生きる世界のある一面をあらわしているように思う。
宮島達男「FRAGILE」
SCAI THE BATHHOUSE