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都市とデザインと : 滝内高志さんに会った

4/30。CONFORT誌『伝説のインテリアデザイン』の取材。14時前に外苑前改札を出たところで藁科さん・佃さんと待ち合わせてちょこっとタクシー移動。住宅街の真ん中で10分ほど迷って、なんとか滝内高志氏のオフィスにたどり着いた。

滝内氏の主な作品としては、先日巡った『黒い月』、『きっしょう』、『OTTAGONO』、『竈』の他にバー『ガラスダマ』、焼肉『そら』、クラブ『真空管』、居酒屋『ゆう』、レストラン&バー『エラグ』などが挙げられる。初期の作品には山本寛斎などのブティックも数多い。すでに現存しないもの、現存していても状態が良くなかったり業態が変更されているもの、などが大半なのはインテリアデザイナーの定め。

私たちが大阪でデザイナー修行を積んでいた90年代初頭、滝内氏の作品からは『黒い月』、『きっしょう』、『OTTAGONO』などに見られた重厚な素材使いがぐっと抑えられるようになって来ていた。金属や石には要所を引き締める役割が与えられ、代わりに大きな面積で用いられるようになったのが突板やモルタルなどのローコストな素材。そうした状況にはバブルがはじけて商業施設の内装費が減りつつあったことが影響しているのは明らかなんだけど、私たちにとって、滝内作品の変化は単なるコスト配分の調整以上の大きな意味を感じさせるものだった。つまるところ、滝内氏によるインテリアデザインは、床や壁の全てを高価な素材で覆い尽くす“内装”から、訪れる人々の気分や動作に働きかけるダイナミックな“空間”へと、役回りをガラリと変えたわけだ。

専門誌の誌面で『そら』(1992)と『ゆう』(1993)の写真を味た時の驚きは忘れがたい。金属や石が突板に代わり、特注照明器具が既製のボール球やリネストラランプに代わっても、滝内デザインのクオリティは低下するどころか、むしろより明快になって強度を増しているじゃないか。

そうしたハイパフォーマンスなデザインの延長上にあるのが滝内氏自身が運営を手がけた『真空管』(1993)と『竈』(1994)の連作。これらのインテリアには滝内氏とそのスタッフによるセルフビルドの箇所が多い。オープン当初の『竈』では箸置きまでがオリジナルで制作されていた。ここでの滝内氏の仕事はもはやインテリアデザイナーと言う言葉では括れない。そこにあるのは「いい店をつくりたい」と言うシンプルな思いだ。
バブルがすっかりはじけ切った後に独立して本格的に活動をはじめた私たちが、勇気を持って新しいデザインに挑戦することが出来たのは、滝内氏のこうした活動があったからこそ、だと言っていい。そんな風に直接的な影響を受けたせいか、私たちの世代のインテリアデザイナーにとって、滝内氏はまるで兄貴のように近しく思える存在だ。実際には親子に近い年齢差があるんだけど。

はじめてお会いした滝内高志氏は勝手に想像していたよりもずっと小柄ですごく痩せていた。短く刈り込まれた白髪と、ゴツいフレームの四角い眼鏡の奥から覗かせる鋭い眼光が印象的なその風貌は、まるで都会に降りて来た仙人のよう。
そんなわけで、最初は恐る恐る、と言った感じでインタビューをはじめたんだけど、滝内氏は徐々に素顔を表してくれた。倉俣史朗氏の赤いキャビネットを見てデザインへの思いをかき立てられ、家具製作会社や建築事務所やデザイン事務所に押し掛けてキャリアを積みながら、まっすぐな情熱に動かされるまま突き進んだデザインバカ(言っておくがこれは敬称だ)・滝内青年の物語を聞いて、時には大笑いしながらも心底感動した。大きな身振り手振りを交えた熱いトークに圧倒されて、上で書いたようなことはぜんぜん上手く説明できなかったのが残念だけど、そこには私たちのイメージ通りの若々しいパワーに満ちた滝内高志氏が居た。

いま滝内氏はこれまでに手がけた店舗運営の事業を徐々に整理して、より一層デザイン活動に注力するための体制を整えている最中とのこと。今後の展開が楽しみだ。これからも滝内氏は、きっと私たちの目の前を疾走し続けてくれるに違いない。

滝内高志氏の作品ツアー1(May 01, 2004)
滝内高志氏の作品ツアー2(May 02, 2004)
OTTAGONOと黒い月(May 14, 2004)
きっしょうと竈(May 14, 2004)

2004年05月05日 00:29 | trackbacks (0) | comments (0)
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